或る阿呆のナマステ

それこそひそやかに

なにかのさかなだ

午後三時に、以前お付き合いをさせていただいていた女性に借りていた総重量7キログラムのCDとビデオテープを返しに待ち合わせた公園へ。
やはり久しぶりに見たその人の顔はけだるい。狙ったアンニュイなどではなく、21年しか生きていない僕が察するにたましいの底からけだるいからあんな顔をしている。たぶんあの人の目に映るなにものも面白くはないのだろう。けだし僕もそう映っているであろう。ここは人間として素直に、非常に、やるせない。ひじょうに、立つ瀬ない。
彼女は総重量7キロの所有欲を満たすとさようならといってきびすをかえし僕の知っている彼女の家へ帰っていった。
泣きそうになったのだが自分がさしてかわいそうな人間でもないので泣かなかった。
どうも人間というのは自分のためにしか泣かないような気がするのだ。感動であれ悲しみであれ喜びのあまりであれ、ものごとのはねっかえりを食らった自分のために泣いている。泣いている人を傍から見ていられる人間はその余裕と優れた客観視力の保持者という点において幸せだ。あるいは賢明だ。しかしより賢明で幸せな人間というものは泣いている人の心理に同調し一緒に泣ける人間だと思う。ここは人間として素直にそう思うのだ。僕はなにか共有したいのだ。僕はなにかを共有するために人の間でがちゃがちゃやっているのだ。はねっかえりを食らって笑い泣きをしたいのだ。しかしなんでか、笑い泣きをするには体力がいる。僕の体力は、物心ついて以来今もってからっぽ、の期間が断続的だがずっと続いている。
はねっかえりのない彼女が好きだった僕もやはりそういう人間なのだろうか。
人と近しくなるときはその人の中に自分と近いものを感じるときだが、人に好意を抱くのはその人の中に自分との「ずれ」を見つけたときだ。彼女の無感動に同調した僕は、しかし同調したという事実をもってして彼女とのずれを感じた。そして今も恋慕は続くがもはやどうにもならない。
去年の学園祭で、ステージで演奏するサークルの上級生たちを見ていて僕は泣いた。おそらくそれは感情の発露に同調できる自分が嬉しくて泣いたのだろう。生きていてよかったと、心底思った。それを与えてくれた上級生たちに今もとても感謝している。
何を見ても無感動、情緒は底這いの一直線。そういう時期もあった。しかしけったくそ悪い顔をいつまでもしていてはそのうち誰もいなくなってしまう。はねっかえりを食らって笑い泣きをしたいがために生きている自分としては、やはり毎日笑い泣きをしたい。そのためにがちゃがちゃやる。感情の発露を示す人や物の、そのテンションの波の定点観測をするのに僕は辟易しきっている。これは体力のない人のやることです。体力のない、ということを人といいます。体力のある、ということを人間といいます。がちゃがちゃやってるうちに体力の向上することを祈りに近い形で、またがちゃがちゃまっとうしていくほかありません。これは独り言であります。戯れ言であります。痴れ事であります。とうぜん、手酌の肴の物思いであります。