或る阿呆のナマステ

それこそひそやかに

泣いてしまえば大丈夫 何が起きても大丈夫

神経症を薬で餌付けして飼い殺し、毎日毎日知らない人知ってる人の一物を咥え、状況と相手への好意に応じてふぐりを吸うことも辞さない、ごっくんすることも厭わないお仕事に従事する女。
ある日午後六時、その女を指名してきた男はなめくじだった。
彼女の仕事のフォーマットに則れば、当たり障りの無い、好意的な愛想笑いを交えた世間話与太話から、タイミングを見計らいきわめてドライに客の衣服を剥ぎ、おしぼりで陰部を擦り拭き、吸い付き、ねめ回し、ミラーボールとトランスの渦に溶けそうな、忍び難きを忍び切れなかった客の諦念を口に含み、おしぼりにもどし、この季節なら暖かいおしぼりを取りにいったん引っ込み、もったいぶって再登場し、二三言葉を交わし、時間が来て名詞を渡し「また来てね、今日はありがとう」と、エレベーター前まで、これも好意に応じて手を組んだり組まなかったりして、まあ扉が閉まれば大丈夫。事なきを得たのは節度あるよいお客さんのおかげ。
しかしこの客なめくじ。
個室とは言いがたいが、とりあえず二人の空間は生まれてしまった。メンタルな負債を抱える彼女だが、曲がりなりにも、接客、奉仕のプロとして、まずは朗々、弾んだトークで幕を開けなければいけない。


神経症「こんにちはー」
なめくじ「どうも」
神「若く見えるねー」
な「…27」
神「あ、そうなんだ」
な「…いくつに見えた?」
神「ぶっちゃけ、22、3」
な「…そう」
神「どうしたの?今日は疲れたの?」
な「いや、別に…大体いつもこんな感じだよ」
神「そうなんだ。あたしもプライベートはそんな感じかな」
な「あ、そう」
神「うん」


女はなめくじのまるでやる気の無い応対に、苛立ちを隠せなくなるような次元の低い女ではない。薬の力でも金の力でも何でも借りて、プロ意識を養い続けてきた強い女。見上げた女だ。しかし相手がこうでは、前頭葉が弾むような軽快なトークは不可能だ。女はこの際に於いても如才なく、男に下を脱ぐようそれとなく促す。


神経症「…じゃあ、始めようか?」
なめくじ「え?…もう?」
神「まだいいの?」
な「うん」

じゃあどうすればいいのだ。女はそう思っただろう。この男は何を目的としてこの店に来たのだろう。募る苛立ちと好奇心。


神経症「お兄さん、今日はどうしてここに来たの?」
なめくじ「女の子と話がしたかったんだ」
神「女の子の友達とか、いないの?」
な「だって、俺、なめくじだし…」
神「へえ」
な「だから、話をさせてくれないですか?」


いったい何を話せばいいのだろう?当然相手の反応は薄いにしろ、世間話をすれば時間は潰れる。しかしそこは女のプロ根性。このなめくじをどうにか楽しませてやりたい。



女「どうしてお兄さんは、なめくじになったの?」
男「わからないけど、なんとなく…心根が、外見を変えたんじゃないのかな」
女「でもお兄さん、かっこいいし、でもなんで、なめくじなんだろう…」
男「さあ…」
女「お兄さん、真剣にそれについて考えたことある?」
男「たぶん…ない」
女「考えなきゃだめだよ」
男「はあ」
女「いや、本当に」



しまった。いつの間にか、というか頭から説教じみてしまっている。でもこうしている間にも時間は流れていく。このまま説教じみた一方通行の会話でこの席が終わってしまったとしても、しょうがない。一期一会。いや、丸投げとかそういうことでは無しに、この男がなめくじでなくなる日が早まればいい。憎まれてもいい。



女「実はあたしも、さっき言ったけど、家ではなめくじなんだ」
男「…へえ」
女「でも外に出ると、まあいろんな力は借りてるけど、人間に変われるんだ。ドアを開けた  途端に」
男「そう」
女「うん。外に出れば世界があるから。仕事もあるから。接客業だし」
男「大変だね」
女「大変じゃないよ。慣れればなんとも思わないよ」
男「そうかな」
女「それでもだめだったら、トイレでも何でも篭って、泣いちゃえば大丈夫。」
男「泣く?」
女「なめくじは泣かないし」
男「そうだね。俺はもうずっと、ああ、なめくじになってから一回も泣いてないね」



時間が来た。男は帰っていった。女はそのあと4人ほどの相手をし、まだ暗い朝に帰宅した。
女がその明け方に泣いたのは、当然なめくじのことを考えたからではない。自分はいったいいつまで薬に飼い殺されていなければいけないのだろうか。
しかし泣いてしまえば大丈夫。何が起きても大丈夫。
同じ時間、違う部屋で、なめくじだった男は、昨晩女に言われたことを背負い込み、蝸牛になっていた。
これでいいのだ。周知の既知の大通り、蝸牛はかっこいい。なめくじはぬるぬるしているだけだが、蝸牛の殻には神秘性が持たされる。成分はなんだろうか。葛藤と諦念が混ざった色?そんな分かりやすいものでくくってしまっては自分の知性を疑われる。触らぬ神に祟り無し。そうして蝸牛は崇高な生き物として、終生貫くことが許される。
蝸牛になった男は、女に、劇的な変化を遂げた自分の姿を見て欲しかった。そして礼を言いたかった。
しかし女は店を辞めていた。女は時を同じくして、マイマイカブリになっていた。