或る阿呆のナマステ

それこそひそやかに

凸 never meets 凸

凸は凸を探している。しかし凹は凸を希求する。凹は凸の影を踏み拿捕し、可及的速やかにそれを捕食する。ああ虚しき摂理。凸は決して凸に会うことは無いのだ。
凸は、その肉体を得る前のことだが、現実世界というものを信じることができなかった。夜が来て、寝ていようが起きていようが朝が来る。その繰り返しのうちに、自らのフォルムは崩れゆき、やがて土に還る。この繰り返しのうちに、果たして現実味というものは孕まれているのか。その思いにやはり肉体も呼応するものなのだろう、一筆で描く(正しい書き順ではそうは行かないので、「書く」という言葉にはここでは暇を出させていただく)ことのできる範囲内での、慎ましやかな大きな変身。私はその経過、結果を聞いて、思いは自身を変える、そう確信せざるを得ない立場の人となった。
世界をこの目で見たい。確かめたい。その思いの丈が、その身の丈を引き伸ばすに至ったのだろう。
対し凹。それは毎日の繰り返しの中にこそ現実世界は育まれていくものだと、強く信じていた。その強さの根拠を私は知らない。私の取材不足がここに災いし、そして災難は続いた。それは始めから「凹」であったために宿った信念なのか、それとも凸と同じように、凹も直方体(この場合立方体かもねー)であったその形を歪めてしまったのだろうか。知る由も無い。
あるひとつの「凸」の話をしよう。
その凸も凸を探していた。自分と同じ、突然変異のex.直方体を探していた。何より話がしたかった。自分の同胞は、果たしてどのように世界を眺めてきたのか。しかし何里と転がれども、同胞は見つからなかった。目にするものといえば、路傍に転がる自分より少し大きな直方体ばかり。それらは少しも、ほんの少しも生きていいるそぶりを見せはしなかった。
夜が明け日が暮れて、その繰り返しの中凸は転がり続けた。同胞を見つけ出すために。
どこにもそれはいなかった。
おそらくそれはちょうど50回目の朝だったろうか。
凸は、その全身の痛みと空腹をして、まさに凸自身に「答え」を与えせしめた。
現実を現実と信じる。その為には肉体をすり減らしてでも転がり続けなければいけない。その実感を現実と呼ぶのだと。
背後からすげースピードで何か転がってきた。凸は振り向いた。中心部分が著しく窪んだ立方体がそこに。
その凹も凸を希求していた。捻くれて背伸びして本当の世界を見たかった、その凸の全てを否定してやりたかった。殺してやりたかった。自分とまさに真逆の変異を起こしたそれを、犠牲にできるものは何を犠牲にしてでも。
凸は、走馬灯を見る猶予も与えられず捕食され、大きな、何の変哲も無い直方体になった。



凸「君は何でそんなかたちになったの」
凹「世界を受け入れたらこうなったんだ」
凸「僕は世界が何も見えずに、信じられずにこんなかたちになったよ」
凹「そのかたちになって何か考えは変わったのかい」
凸「何より実感があれば、世界は現実味を急激に帯び始めるものなんだね」
凹「実感?」
凸「君は世界を受け入れて、なにか実感したものがあったかい?」
凹「何も無かった。僕は世界を受け入れることが現実だと思っていたよ」
凸「そうかい」
凹「うん」



ただの直方体は、それから動かなくなった。