或る阿呆のナマステ

それこそひそやかに

Tokyo Cityは壁だらけ

時(time)と場所(place)と場合(oppotunity)をわきまえずに突然ポール牧が往生した2005年ももうすぐ終わり。
僕の父親は死に神で母親は死に女神なのに、生まれた僕自身は右の頬を叩かれたら左のほう(過激なら過激なほど駄洒落ではすまないのでやめよう)に依頼する程度にとどめる小市民に成長しました。まあこれは母親が、メスの死神ではなくて死んだ女神だからなのでしょう。
さてこの一年を振り返ると、どうも知らない人のお風呂場ばかりぶっ壊していたような感に囚われてしまいます。
工場での荷積みの毎日には隔週一度の休みに風呂場の解体、サークル活動や受講の合間に風呂場の解体、見積書請求書督促状作成の合間に風呂場の解体と、僕はどうやら暇さえ与えられれば風呂場を解体したい人間のように思われます。
通常、気心知れた相手でないとかなわない、その人、家庭の風呂場への訪問。しかしまったく見知らぬ赤の他人の風呂場を拝見し窓から土足で上がりこみその上、壁を玄翁でぶち砕き、浴槽を窓から放り出し、新たに床に混凝土を塗りたくり、一晩放置し、そこから先は僕は関わらないのですが、後日挨拶に伺ったときには見違えるようなぴかぴかな新しい風呂場がそこに。僕自身が関わるのはあくまでも破壊の段階まででして、再生の段にはすでに僕のほうはアルバイトや学校生活が始まるのです。他人の家で劇的!ビフォーアフターです。一度始めると止められないのがこのアルバイトです。
さてそんな風呂場解体なのですが、高齢化の進む世相を反映し、風呂場のリフォームと言うのは昨今、拡張ではなくむしろ縮小という形での依頼のほうが過半数を占めるのだそうです。この実態は当然地方により大きく変わってくるとは思いますが。どこからでも手を前に出せば壁に掛かれる風呂場でないと恐怖を感じるのが老人なのだそうです。
起きて半畳寝て一畳という言葉がありますが、これは老後を迎えた人間が不自由なく暮らせる生活空間のことを表した言葉へと変わりつつあるようです。
手を伸ばせば壁。どこから手を出しても壁が支えてくれる。壁とはかくも頼もしいものなのです。
肘を曲げて手を差し出しても壁。指一本立てても壁。瞬きしても壁。呼吸しても壁。窒息しても壁。ドアを開けても壁。街並みは壁。通行人は壁。夜は壁。星は壁。壁が光る壁が息づく壁が背伸びする壁が風邪を引く壁が勝つ壁は勝つ壁は負けない。僕は壁に勝ちたいが、そのためには壁と訣別しなければならない。来年こそはと、なにやらそんな2005年でありました。