或る阿呆のナマステ

それこそひそやかに

あとはケセラセラ

「なるようにしかならない」

22歳くらいのころ、やたらと口をついて出ていた。半ばやけくそ、ある程度やったしあとは野となれ山となれ。知らねえよ。

そんな意味だったがいまは、ある程度やったんだしよくなっても悪くなっても仕方ない、あとはケセラセラ、納得もできるだろうしこれが最善なんだろう。と使い方が変わった。あくまで「ある程度」はちゃんとやる、これが大事だな、というか前提ですね。

これ書く必要があるのか?といえばそうでもないな。これから書く↓についても。でも書いちゃう。

 

以下は雑感。あなたにも、もしかしたら分かってもらえるかもしれない夢です。

 

・しつこくもまたアルコール依存症について。アルコール依存症の罹患者には「酔いのグラデーション」がない。

自分の家庭には自分と母の二人のアル中がいる。自分はまだほろ酔いを経て泥酔に至るが、母はビール50ccでも摂取するともう別人格になり「すべておじゃん」コースに突入する。家事もできない。会話もできない。顔つきが人間をやめたものに明らかに変わる。こういうところでもまだ自分は完全に脳みそがアル中にはなり切ってないんだな、と最近気づいた。断酒するならいまのうちだな、と改めて思う。アルコール依存症とは診断されていないが、自分でそう確信してるんだから。あとはケセラセラ

 

・人ひとり、自分とともに歩く人がいたら、どうしても自分は持て余してしまうこと。恋仲にある相手には、私で満たせないところは、他の人で埋めてほしいなと思う。心的であれ肉体的であれ。束縛、独占欲が理解できない。自分にもそういう欲が沸いてきてほしいな、と思うこともなくはない。

愛情とその優しさで隣を用意してくれてそこに居続けても許してくれる人がいるのなら、その人のために死ねるのは幸せ、とまでは言わずとも長い時間を共有させてもらえる幸せって生きる意味に匹敵するんじゃない?

あとはケセラセラ

 

・「ものすごい愛」ってなに?いま↑で言ったことが自分の答えかもしれない。「取るに足らない愛」が「ものすごい愛」だと思う人がいてもいいんじゃない?多分私はそんな人間です。でも「ものすごい愛だってあなたは思わないの?」と聞かれたときに、「うん、そうだね」と言える優しさは「ものすごい愛」だな、とも思う。

 

・自分はおそらく他の人の恋愛とはだいぶ変わった恋愛をしたい、してきた、している。あとはケセラセラ

 

・大昔の自分のブログを、恥を忍んで読み返してみた。20歳くらいの自分が「初対面からしばらく、自分と相手の共通点を見つけるほど親近感は膨らむけど、その親近感のなかに『理解できる違い』を見つけるほどにさらにそれは『好奇心という形をとった共感』、言いかえれば好意に変わって、膨らんだ親近感の中で膨らんでいく。膨らんだ風船の中でもうひとつ、別の風船が膨らみはじめる」と折に触れて書いていてはっとした。「いいこと書きよるがなこのクソガキ」と思った。

20歳前後の自分はこんなにいちいち苦しかったんだなとびっくりした。

たまにハッとすることを言うクソガキはもうこんなクソ大人になったよ。安心したり悲嘆に暮れたり納得してください、20前後の俺。

これは蛇足だが、考えなしにつれづれ書き散らしたあれらを「面白い」「好き」って言ってくれる人がいたけれど、たしかに20そこらのガキがあんなの書いてたらちょっと面白いかもな、と思った(言う必要ねえな、でも言っちゃう)。

 

・バックが楽しい理由(奥まで刺さる感、演技がいらない、純然たるピストンだからけっこう楽、相手が恥ずかしさを忘れて鳴いてくれる)。

 

・詩を書きたいな、とずっと思っているのにいつまで経っても書けない。誤解を招くのが怖いから。読み手の想像力に価値を置いて、自分の意図とは違う受けとめかたを許す、その上で投げかけられる人はすごいと思う。自分の場合、なにか書き散らしたいな、という時にはだいたい6割5分が脱線という本線で、つまり脱線したいから書き始めて、残された3割5分のスペースを、詩(もどき)か散文かわからない何かで埋めてかろうじて人に斟酌してもらえるように成型する。あとはケセラセラ

 

・ブログはお金がかからない。それを楽しんでくれる人がいるならコストゼロの、感想を聞かない限り双方向にはならないコミュニケーション。でもあとはケセラセラ

 

・20歳くらいから言い回しが違うだけで言っていることに変化がない。

石川雅之(代表作「もやしもん」の人)が描いた坂本龍馬の死に際の台詞に「人間が人生で本当に伝えたいことなんて一個か二個ぜよ」というのがあり、高校生の自分は「きっとそうなんだろう」と思った。いまもそう思う。

いまの自分に、人に伝えたいことがもしあるとしたら

 

「親近感を持つのは共通点を見つけた時、好意を持つのは違いを見つけていく時。そのあとに、やっぱり違いは当たり前にあるとわきまえて、わきまえたら、好意があるからこそ違いを小さくしようとする。お互いがそうできればその姿勢が共通点になってはじまりに戻ってくる。はじまりに戻ってきたときに親近感が愛情になって、あとはこの過程を繰り返す、繰り返す体力が愛情

「ハードコアな人の気持ちを理解するのに、自分までハードコアになる必要はたぶんない」

 

20前後とほとんど変わってない。20年経ってもそうなら↑が多分伝えたいことなんだろう。

 

・本当は各項ひとつひとつについてもっと長く書きたかったが、その必要がないなと思った。それをすると多分二個前のブログみたいにぼやける。読む人が疲れる。あとはケセラセラ

 

俺の好きな人がみんな幸せでありますように。無責任にそんなことしか考えられない。

 

いちにーさんしーごーろくななはちくーじゅーじゅーいちじゅーにじゅーさーん!!!

↑きのう弟にいきなり言ってみた。

「うわー!!それなんだったっけ?」

「青い春」

「ああー!懐かしいー!」