「4秒間」、視線と視線を合わせるためには、自分だけでなく相手にもそれなりに強い好意を持ってもらう必要があるらしい。信憑性のほどは知らないがネット上のなにかで目にした記憶がある。
たしかに4秒間というのは絶妙な長さだと感じる。連続して綺麗に流れる時間にはぎりぎり足りない。一瞬の、こま切れのタイミングを何百何千と積み上げた「あまりにも長い瞬間」のようにも思えて、雑に思い浮かべただけでも気恥ずかしくなる。特定の相手を空想に呼び出す。いや呼び出す必要がなかった。とっくに来ていた。のべつどたまにいるその相手から、卑しくも4秒間のまなざしを施してもらう。ありがたや、こちらも両の目を差し出して頂戴する。頂戴するものの、もって3秒。頑張りましたね。思わず照れ笑いなどしつつ目をそらす。おめでたい場面。そんな想像をする、このおつむのおめでたさ。単にこのおめでたさの重ねがけが気恥ずかしいのかもしれない。
「3秒」と「4秒」の間にある照れ臭さ。この照れ臭さには、(比喩も兼ねて)たったの1秒ですら耐えられない。思わず目を逸らす。相手はその間も視線を外さない。勝負ありましたね。そういえば私はにらめっこをして勝てたためしがない。
負けると分かっていて、なぜ目を見てしまうのだろう。ググった。人にはなんらかの感情に起因して、同じ時間、空間を共有しているその相手の瞳孔を確かめたいという、本能に近い欲求があるらしい。本当か?その理屈は後付けじゃないのか?しかしその感情が負であれ正であれ、たしかに相手の目を見ずにいられない時がある。思い当たる節が変な声を出しながらすっぽ抜けて飛んでいった。二度と戻りません。
なにかしら好意を持つ対象を見つめるとき、人の瞳孔は広がるんだそうだ。反対に憎々しいものを睨むとき、瞳孔は縮むという。私はいままで、相手の感情にお伺いを立てるために負け戦にこの目ふたつで挑んでいたんですね。視力が0.03で助かりました。いざとなれば裸眼で逃げます。
「まなざし」というものは決して対等に交わすことはできないものなんだそうだ。これは人と人の関係は例外なく上下の関係で成り立っている、という道理の副産物だという。斎藤環という有名な精神科のお医者さんが言ってました。その通りだと思う。私はいつも、できるなら下にまわりたい。慇懃プレイって楽しいです。にらめっこで勝ったためしがないのはそういうことだったのか。膝を打つ。
ただ、そんな合点のいく理屈をもらっても、やっぱりなんだか釈然としない。親しい人から「瞳孔開いてるよ」と言われたことは野放図な人生の中で何回かあるが、私は人の瞳孔の開いた萎んだをはっきり認識できたことがない。あ、この人いま瞳孔が開いてる!嬉しい!とテクニカルに喜んだ経験がない。それどころかどんなに親しい相手でも、髪を切ったとか背が5cm伸びたとかですら、言われないと気付けない。
人は人の瞳孔を見つめてしまう。これが相手の感情を探るための本能的な「手段」というのはなんとなく納得できるようになってきた。しかし、見つめるという行為の「目的」が感情を探るため、というのはまだどうにも腑に落ちない。
単純に見たい。見ていたい。気恥ずかしさに耐えられないのは分かっているが、限界まで見ていたい。文字通り目に焼き付けたい。お別れして帰宅して、風呂に入って、よかったまだ焼き付いている。それならば焼き付いているうちに、とそのまま目を潰すひとり新春なまらクソ春琴ショー、退屈ですね。本年も何卒よろしくお願いします。春ですね。サクラサク。悲恋反転、成就せり。大団円ですね。サウンドノベルゲームで選択肢を間違えてバッドエンドを迎えたあの感じに似ているのでやり直します。
単純に見たい。見ていたい。気恥ずかしさに耐えられないのは分かっているが、限界まで見ていたい。4秒もたないという意味もあるが、面と向かって見ていられる幸せな時間の中で、できるだけ見ていたい。だから見つめるんじゃないのか。相手も見てくれるのなら自然と目が合う。それだけじゃないか。そのとき瞳孔が開くかどうかはどうでもいい、と言いたいがそれではあまりに一人よがりなので、本当のDance Chance Romanceは相手の瞳孔しだいだと胸に刻んで、おあとがよろしくないが寝る。
おあとがよろしいようで。この言い回しは「次の演者(おあと)の準備がもうよろしいようで」もしくは「(おあとには)良い演者が控えていますので、私はこのあたりで失礼します」という意味らしい。つまり私は誤用したようだ。知るか!寝る。