或る阿呆のナマステ

それこそひそやかに

今更だねー

二年ほど前に青空文庫田山花袋の「少女病」という短編を読んだ。今日は図書館で読んだ。

高校時代にナンバーガールタワーレコードでそのバンドの商品に勝手に邂逅し、そこからピクシーズ、プロデュースアルビニ、ミーハーアルビニファン、ティムキンセラの盲目的全肯定と、簡潔且つ愚直な回顧録を貞の操より奥深いところに秘め続ける私だから、「少女病」とその3文字から導き出されるのは、あの眼鏡、の奥の、嘘だらけの細い目をした向井秀徳です。
しかし「少女病」と言う作品と「少女病患者向井秀徳」は単純即決的には結びつかないものです。これは「少女病」、ナンバーガールの「透明少女」などの楽曲を聴いてみれば皆さん納得していただけるところだと思います。
もしも共通するところがあるとすれば、「少女」という、まあ一般的には「瑞々しくきらきらしている、そしてそのタームはきわめて短い、美。金の無いおっさんには見向きもしない存在。だから文学、音楽などの表現活動、殊に、30を過ぎて無精ひげをキープし、伸びすぎたらそりまた無精ひげの三文文士、オルタナ焼き直しだけでは食えないバンドマンが変質的偏執的な作品を創出する際において掲げるテーマとして最も手っ取り早い存在」を利用し、その愚かな算段の中からとても、本当にすばらしい作品を作り上げたということでしょう。

少女をテーマに、おるたなじゃきじゃきに、不協和音すれすれの二本のギター、女性ジャズマスター奏者を使い、芋を装いしかし絶叫する向井秀徳。全て計算ずくの末に、すばらしい作品は生まれる。当然のことだ。
表現者は狡猾であり自信家でありその自信を毎日喪失し次の日に持ち直し明後日のことなど知るかばか!という人間で無ければ務まらない。また言葉足らずだ。説明するのが面倒くさい。自分はブログで評論は向いていない。批評自体も三文に足らず。