或る阿呆のナマステ

それこそひそやかに

実話

 今朝六時。目覚まし時計のなる前に夢を終わらせ、瞼を開け、時計を覗き込み、手足がない。これには驚いた。確か、ゆうべ布団にもぐりこむその瞬間まではあったはずだ。いや、「手足がない」と言うよりも、「手足が手足ではなくなった」という方が近いだろうか。感覚的に「ここは手首だな」と思われたところはすでにわき腹になってしまっているし、同じく昨日まで下半身と認識していた箇所は、いまや下半身として認識され得る形状を大きく逸脱し、つまりただの肉のかたまり。
 今まで二十年だらだらだらと無自覚に生きてきたが、まさか自分の手足が僕に愛想を尽かすなんて夢にも思わなかった。以前、中学校の先生が通信簿の備考欄において僕の人格を「なめくじ」なる一語、たったの四文字で評したことはあるが、この身体はまさしく、その巨大さを度外視すれば「なめくじ」そのものだ。まさか本当に僕がなめくじに。これはおどろきだ。
 でも今日は先月分のバイトの給料日だ。とりあえず出勤して、健常者として社会に関わった最後の証を頂戴しなくては。僕は粘液まみれの布団を、生まれてはじめて行う伸縮運動で抜け出すと、洗面所ヘ向かおうとした。しかし、なにしろ生まれてはじめてのなめくじ体験。どうやら粘液の使い方がよろしくないようで、コツを掴むのに少々時間がかかってしまった。
 初心者なりに迅速な行動を心掛け、昨日までの二十倍ほどの時間をかけて洗面所にたどり着き、鏡を覗きこもうとした。そのとき、顔を鏡に移すために向かいの壁に身体を這わせよじ昇ったのだが、この作業がえらく気持ちのよいものに感じられた。そういえば昔テレビか何かで見たが、カタツムリやなめくじには、逆進性という性質があって、彼らは本能的に低いところから高いところへ移動しようとするそうだ。そうか。僕はもう、かなりなめくじなのか。これはいい。僕は前々から、グロテスクかつある種の神秘性を孕んだあの殻のせいでカタツムリは苦手だったんだけれども、なめくじは大好きだった。あの佇まいに、以前から僕は何か近しいものを感じていたのだ。あの気持ち悪い姿態もさる事ながら、その身体から滲み出る粘液に、僕はシンパシーを抱かずにはいられなかった。あれこそ負け犬特有の負のオーラだ。
 そんな事をゆっくり考えながら、壁を登る。すでにこの心地よい律動に十五分ほどかけているだろうか。それはあくまで昨日までの時間感覚を用いているのだが。垂直運動には思いのほかコツが要るようだ。なにぶん、手首をまわそうとすればわき腹がくすぐったくなってしまうこのままならなさ。昨日までの感覚では、もう僕は今日の自分の体を操ることはできないのだ。ひどい。こんな仕打ちがあるだろうか。性根までなめくじ然。不慣れな逆進を試みながらも、以下のような連想が思考に去来した。
 やはり彼ら、いや、われわれなめくじは、なべてこのような性根の持ち主なんであろうか。そうだとしたらこれほど愉快なことはないかもしれない。もしもそうだとすれば、この性根と、姿態が、それぞれ「なめくじ」が「なめくじ」であるためのアイデンティティを相互補完していることになるのだ。その体躯は、それをして精神になめくじを促す。きっと生まれたばかりのなめくじの大概は、自分のその姿に落胆を禁じえず、「こんなひどい仕打ちがあるだろうか、ああ神様」と天を仰ぎ悲嘆に喘いだだろう。しかしやはり、望めど望まざれど、彼らのその身体からひねもす分泌されるあのどんな言葉よりも端的に「悲哀からやがて諦観」を形容する粘液と寝食を共にするうち、やはり彼らはなめくじになってしまうのだろう。「なめくじ」を地で行く憂える心根は、それに見合う体躯をそして求めていく。
 僕の場合はしかし、この心根が「なめくじ」の身体を求めたのだろう。いや、そうではなく、この心根に見合う体躯が、「ヒト」ではなく「なめくじ」になったという事だろうか。僕はやはり、「なめくじ」になる必要があったのだろう。別に悲しいことも、うれしいこともない。なるべくしてなっただけだ。ならなければならなかったのだ。どうでもいい。過程も、結果も、要らない――ほら、すでに僕はなめくじ然の心根をずっと持っていたのだこのように。
 突如、寝室のほうでけたたましく目覚まし時計のアラームが鳴り響いた。アラームは八時半にセットされている。そうかもう八時半か。うん、もう八時半か。そうして僕は、朝、目を覚まして洗面台に対峙するという、ほぼ無意識のうちにこなされるはずのこのタスクに、二時間半という時間を費やしていることに気づかされた。
 確かに寝室を抜け出て、所定の伸縮運動を用いて洗面所にたどり着くには相当の時間を掛けたように感じられた。しかしこの今現在の垂直な律動、これにはさほど時間を要した感想はない。さきほどは十五分ほどだろうか、などと言ったが、今はむしろ、そこから後の挙動も含めて、全部で三分もかかってはいないのではないかと思っていたほどだ。
 やはり人間のために作られた時計では、もはや僕は生活できない。あたり前のことだ。僕はこの瞬間から、「時間」を唾棄することが許されたのだ。それは僕には必要のないものなのだ。むしろ、僕が純然たる「なめくじ」になるためには、これは唾棄しなければならないものなのだ。しかしそんなことを決意する以前に、もうこの感覚と時間の差の開きは相当なものなのだから、そうだ、もうかなりなめくじだ。そのうち完全なそれになれるだろ。何を大上段に構えているのだろう馬鹿馬鹿しい。
 …次第に何を考えるのも意味のないことに思われ、なぜこの壁をさかのぼっているのかもわからなくなり、いやそうか、これはそうだ本能だ、逆進性の本能だ。いや違う、そうではなく何か目的があったはずだ。………鏡だ。それを覗き込むためにこうして。まったく、これほど本末転倒を気持ちよく味わったことはない。しかしそんなことももう、どうでもいい。
 おそらく、(その有無は無視して)首をひねれば、とても平易に水平な目線の先にひとつの巨大な「なめくじ」を視認できる高さまでは昇り詰めているだろう。僕はゆっくりと頭を捻り、鏡に目を向けた。
 にわかには信じられない「顔」がそこにはあった。
 いや、もはやそれはもう「顔」ではなかった。それは単なる「首の延長」だった。ちがう。首すらなかった。そこに映ったのは、純然たるなめくじだった。ただの「先端」。目も耳も、鼻、口も、そこには映らなかった。
 あれ、なぜ耳もないのに寝室のアラームが聞こえてきたのだろう、と思った次の刹那にすべての音から遮断された。
 あれ、なぜ目も無いのに視覚がはたらくんだろう、と思った次の瞬間、視界が消えた。


 それからどれくらい経ったのかはおよそなめくじの僕にはわからない。すでにすべて、触覚を除き五感は失われた。そして僕は最後に考えていた。
 「なめくじ」に、おそらく心根などないのだ。
 まだ五感を携え、人間的思考力を持ち合わせていたさっきには、なめくじについて、その心根と体躯がお互いにそれを「なめくじ」たらしめるために然るべき作用を及ぼしあうのだろうと結んだが、やはりそれは違うのだろう。
 「なめくじ」は、その姿態だけで完全に「なめくじ」なのだ。あの粘液だけで十分すぎるほど彼等には事足りているのだ。「負け犬特有の負のオーラ」などと評した自分が恥ずかしくてしょうがない。あれには正も負も、陰も陽もない。あの姿態、あの粘液がすでに起であり承であり転であって結である。それを目にする人間のことなどまったく関係がない。とにかく「なめくじ」は「なめくじ」であるだけなので、これ以上何を言っても無駄なことだ。
 そしてこの省察は、「なめくじ」にも、すでに「なめくじたる僕」自身にも、まったく必要のないものなのだ。省察も、それを促す思考も、すべて人間にしか持ち得ない。「なめくじたる僕」がこの考証を忘れた時、その時に僕は完全な「なめくじ」になるのだろう。
 しかし大概の感覚が絶えたあとも、僕の思考は果てることは無かった。むしろ先ほどから次第に、意識の冴えていくのをおぞましいほどに「感じ」ていた。省察はやはり自分自身に及ぶ。
 僕の意識無意識が呼んだこの身体は、かくして僕の身体になりつつあるけれども、その身体(何も無い顔)を僕の思考が確認したことで、感覚は無残に死んだ。器官の何一つ持たない顔、がそうさせたのではなく、それを認識した思考が感覚を殺したのである。それほど絶対の力を持つ思考は、果たしてなにものにか殺されるのだろうか?その予感はほとんど(嗅覚の死ゆえにも)嗅ぎ取ることができない。
 僕は「なめくじ」ではなく、「なめくじたる人間」のようだ。いや、「人間たるなめくじ」、あるいはそのどちらでも無いのかもしれない。この心根は何に帰属するのだろうか。
 感覚。アンテナ。それの根からへし折れたことを、唯一残された触角で悟った。この僕の人間そのものの感受性はいつ死ぬのだろうか。ああなんてひどい仕打ちだろう。心にそう一言、落としてみたが、その言葉はすでに輪郭をなくしていた(と錯覚する人間そのものの)心に響くはずもなく、虚しくどこまでもあてどなく伸び続けた。